中国大返し(おおがえし)…
天正10年6月、秀吉が毛利家を攻めていた際、織田信長が亡くなったと聞き、中国地方から2万の大軍ごと、たった数日で京都まで(約200km)戻った、という日本史上の大強行軍。
で、この「中国」って、なに?
中国地方の「中国」ってなに?
「この中(岡村隆史・長谷川博己・門脇麦・堺正章)で…『麒麟がくる』で一番頑張って欲しい素敵な大人」という事で、主人公で明智光秀役の長谷川が指名される。
チコちゃんが「中国地方の『中国』ってなに?」と聞く。
長谷川は「…中国から渡ってきたんですよ」と苦しそうに答えるが、やはり「ぼーっと生きてんじゃねーよ」と言われてしまう。
〇チコちゃんの答え
⇒中国地方の中国とは中間の意味
中国地方の「中国」は、中間の国という意味
詳しく教えてくれるのは、日本の歴史に詳しい国際日本文化研究センターの井上章一教授。
先生は「『中国地方の中国』という言い方は、中間の国という意味(今の中華人民共和国とは関係ない)」だという。
五畿七道
呼び方が生まれたのは、今から千年以上前の奈良時代。
当時は五畿七道という地域の呼び方が既に存在していた。
(北陸道・東山道・山陰道・南海道・山陽道・西海道)
「この五畿七道とは別に都からの距離によっても地域の呼び方がザックリと別れていた」と先生は言う。
今でいう奈良・京都南部・大阪・兵庫・南東区(?)を畿内と呼び…
畿内から近い所を「近国」…現在の岡山県岡山市くらいまでの比較的近い所。
畿内から遠い所を「遠国」…現在の島根広島の一部、山口、愛媛、高知そして九州一体
その中間の国々を「中国」…中間に位置する現在の鳥取・島根・岡山・広島のそれぞれ一部分と香川、徳島辺り
なぜ現在の中国地方はこの5県を指すようになったのか
現在、中国地方は鳥取・岡山・島根・広島・山口をさすのだが、なぜこの5県になったのか?
中国路
奈良から平安時代にかけて、遠国の九州は東アジアとの貿易の窓口であった大宰府を中心に商業が栄えていた。
そのため近国と遠国の九州を結ぶ通り道であった山陽道や山陰道は、人々が絶えず行きかっていた。
この通り道は中国を通ることから「中国路」と呼ばれ、やがて中国という言葉だけ残り、今の5県がある一体を中国地方と呼ぶようになった。
東側にも遠国近国中国がある
先生は「西側の話ばかりしたが、実は東側にも『遠国・近国・中国』がある」と言う。
実は、現在の福井の一部、岐阜の一部、そして石川・富山・長野・山梨・静岡も昔中国だったというのだ。
スタッフが「なぜ言わなくなったのか?」と先生に聞くと「私にはわからない。逆に質問したいくらい。どうして西側だけ残ったのだろう?。こんなものは偶然としか言いようがないのであまり問い詰めないでください」と、半ギレ?で答えていた。
1582年「中国大返し」とは
秀吉が織田信長の命令で中国の大名毛利氏と対決していた。
その時、明智光秀が信長を襲撃した本能寺の変が勃発。
主君が死亡したという知らせ受けた秀吉は、毛利氏との講和をいち早くまとめ、信長の仇を討つため2万の以上の軍勢を引き連れ、わずか十日(八日)とも言われる日数で、中国から京都へおよそ200㌔とも言われる道のりを取って返す。
(これが)まさに「中国大返し」。
そして秀吉は明智光秀と天下分け目の天王山で激突する。
目の前には秀吉の大軍。
信長を倒した男明智光秀の運命はいかに?
…「この続きは大河ドラマで…」とナレーション、番宣で締めた。
さらに、アシスタントの愛ちゃんも…
「大河ドラマ『麒麟がくる』は、戦国大河初4kフル撮影で鮮やかな色の衣装を身にまとった登場人物たちの姿をクッキリとを映し出しています。従来と異なる新しい解釈で『英雄を描くストリー』に注目してください」と宣伝した。
まとめ
「ひだまりの縁側」で読まれた手紙は、「仏壇から出てきたへその緒の処理」についての質問だった。番組でお馴染みの千葉住職の回答をチコちゃんが教えてくれた。
へそは「親と自分の絆」ひいては先祖と自分を結ぶ接点であり、へその緒はその物証として大事なもの。古いものが見つかったり不要のものと感じたりした時は菩提寺や氏神様の神社に奉納するとよいでしょう…という答えだった。
※1月3日「チコちゃんに叱られる!」より参照・抜粋