チコちゃんが好きなお肉料理はなに?と聞かれ「(牛の)他人丼」と答えた。
「豚(で作って)も他人ですけど…京都駅の8条口をまっすぐ行ったとこにものすごい『牛肉たっぷりの他人(丼)』出すとこがあんのよ。それに山椒たっぷりかけて食べると抜群にうまい」と言っていた。
相変わらずチコちゃんは5歳でも?渋い味覚がお好きなようだ。
お肉と言えばなんで西日本は牛肉で東日本は豚肉なの?
「この中(岡村隆史、ゲストの小堺一機、中川翔子)で一番料理にこだわりがあるグルメな大人ってだあれ?」と聞かれ岡村が立候補する。
チコちゃんに「いつも美味しいものをタダで食べようとする番組で色んな料理を食べてるもんね」と言われ岡村は苦笑い。
チコちゃんに「肉じゃがって食べたことある?…肉じゃがに入っているお肉と言えば何?」と聞かれ「ぎゅう(牛)」と答える。ショコタンは「豚」と答える。
チコちゃんが「東京は肉と言えば豚っていう感じで…」というと小堺もうなずく。
「関西はどうかしら?」と聞くと「岡村は牛ですね」と答える。
チコちゃんが「お肉と言えばなんで西日本は牛肉で東日本は豚肉なの?」と岡村に聞く。
悩んだ末「取れ高!」というと、「ボーっと生きてんじゃねーよ!」と言われる。
実際、聞いてみた
実際、スタッフがリモートでお肉のお店を経営している大阪(精肉店の松尾さん)と東京(豚カツ店の鈴木さん)に聞いてみた。
Q お肉と言えば?
西・大阪(精肉店の松尾さん)…牛
東・東京(豚カツ店の鈴木さん)…豚肉
Q 肉じゃがに入れる肉と言えば?
西…牛
東…豚肉
Q カレーに入れるお肉と言えば?
西…牛
東…豚肉
さらに…
〇消費量は?
総務省の家計調査でも西日本は牛肉、東日本は豚肉を好んで消費しているのがわかる。
※ここで「家計調査結果(総務省統計局)」県庁所在地及び政令指定都市別ランキングを元に作成した日本地図が表示される。色の違いで分かるようになっていた。
〇肉じゃがに使うお肉は?
…という質問でも日本列島(地図)が真っ二つに分かれていた。
※Jタウンネット調べ(投票総数2852票)
牛肉優勢・豚肉優勢の区切りは、地図上では上から富山、岐阜、三重(牛肉優勢)・新潟、長野、愛知豚肉優勢が堺目となっていた。
〇チコちゃんの答え
⇒お肉と言えば、西日本が牛肉で東日本が豚肉なのは西が公家で東が武士の社会だったから。
生活の中で使っていた動物の違いが影響している
詳しく教えてくれるのは、静岡県立農林環境専門職大学で畜産の研究をしている祐森誠司教授。
先生によれば「…この違いというのは武士と公家が生活の中で使っていた動物の違いが大きく影響している」そうだ。
今からおよそ1400年前、飛鳥時代から平安時代まで日本の中心は奈良・京都など公家が中心の社会だった。
その時に西日本で仕事してくれる動物として使われていたのが牛。
※平安時代
・政治の中心は京都
・公家社会
・牛を重宝
牛は縄文から弥生時代に水田技術と共に伝わったとされ、力が強くゆっくりと動くため人々が扱いやすく、農耕や公家の移動を手伝う動物として重宝された。
牛が東日本に伝わらなかったわけ
西日本ではなくてはならなかった牛が東日本には伝わらなかったのはなぜか。
「はこぶ輸送手段がないわけです…」と先生。
途中にはアルプスの高い山や静岡県に流れている大きな川がたくさんあるので、なかなかできなかった。
さらに関東は富士山の火山灰が積もる痩せた土地だったので、大量に牧草を必要とする牛は、ほとんど育てることができなかった、という。
では、東日本で生育されていたのは?
では東日本で生育されていたのは?というと…
平安時代の後期(794年~)から鎌倉時代(1185年~)に変わった段階で政治の中心は京都から関東の方に移る。
公家の社会は西に残り、武士の社会が東の中心になっていき、この時の移動手段として、馬が利用されるようになる。
※鎌倉時代
・政治の中心 鎌倉
・武士社会
・馬を重宝
鎌倉時代は「いざ鎌倉」の時代。
※いざ鎌倉=一大事がおこればいち早く幕府にはせ参じるのが武士の務め
武士にとって大事なのは、何よりも早い移動手段が馬であり、戦での活躍…馬はなくてはならない存在だった。
さらに牛と比べて胃袋が小さい馬は、草の少ない関東でも飼育が出来農業にも活躍した。
(鎌倉時代の書物には馬の産地は東日本に牛の産地は西日本に多かったと書かれている)
明治時代になるまでの1200年間食肉は禁止
「馬や牛は食べちゃうのでは?」とスタッフが聞くと「(馬や牛は)基本的に食べないですね」と先生。
日本は飛鳥時代に伝わった仏教の影響で、動物を食べることがたびたび禁じられてきた。
基本的には明治時代になるまでの1200年間食肉は禁止だった。
そんな中、西日本は牛、東日本は豚ではなく馬という土壌が出来上がった。
では、豚は?
先生は「豚が日本に入って来たのは、戦国時代。沖縄と九州の間の島々に伝わってきた。数が少なかったことと島と本土の間で交流があまり多くなかったことで、豚を食べる文化が本土に伝わらなかった」という。
さらに牛や馬と違い農耕や移動手段の役に立たない豚は食肉禁止の時代にはあまり広まらなかった。
食肉文化に大きな変化が生まれる
しかし、この食肉文化に大きな変化が生まれる。
江戸時代末期、開国によって日本に外国人が押し寄せると、食肉文化の外国人は日本で肉料理を食べた。
食肉は文系開化の象徴として横浜などで流行。
1862年には横浜に初の牛鍋屋伊勢熊ができると、福沢諭吉が「牛肉は滋養に良い」といったこともあり牛鍋が大流行。こうして日本中に牛肉を食べる文化が広まった。
では豚は…実は明治5年に政府指導の下、西洋式の養豚法を取り入れるが牛肉に対抗するほど広まらなかった。
しかしこのあと豚が広まるきっかけが…
豚が広まるきっかけは戦争だった
豚が広まるきっかけは…「戦争なんですね」と先生。
1894年(日清戦争)、1904年(日露戦争)と日本は立て続けに戦争状態になった。
この時、軍隊の食糧に採用されたのが牛肉の缶詰。
これを機に(軍が肉を買い占め)たちまち牛肉は品薄になり価格が高騰する。
牛の産地がある西日本はまだしも、東日本には牛肉が出回らなくなる。
このピンチを救ったのが豚。
豚は雑食性なのでどんなものを食べてもどんどん早く大きくなっていく。
残飯が多かった都市部に豚の雑食性がマッチ。
さらに豚肉料理の定番、カツレツや豚カツなどが誕生し、豚肉の需要はうなぎのぼりに…
終戦を迎えた日本の食糧事情
そして豚肉の広がりを決定づけたのが、終戦を迎えた日本の食糧事情だった。
国民に対して食糧、栄養の高い肉を提供しようと行った時のキーポイントとなったのが豚肉。
豚は食肉として育つまでが約6ヶ月と牛の5分の1。
年に2~30頭を生む優れた繁殖力にも注目され、茨城や千葉に次々と畜産試験場が建てられた。
こうして安く大量に生産できる豚が東日本に広がっていった。
どうして豚肉は西日本に広がらない?
西日本ではそれより先にもう牛肉の文化が定着していて、豚肉の食文化が入り込む余裕というのが西には無かった。
東日本⇒食糧難を支えた豚が定着
西日本⇒昔から牛の産地
こうして西日本は牛好き、東日本は豚好きという文化が完成した。
※8月1日「チコちゃんに叱られる!」参照・抜粋
まとめ
私は「東日本」生まれの「東日本」育ちだが、すき焼きも肉じゃがも牛の方が美味しいと思っている。
以前、北海道の友人とすき焼きをしようと買い物をしていた時の事、彼が豚肉をカゴに入れたので、少々もめた。結局、彼の家で食べるすき焼きだったので…折れた、という思い出がある。
その他の質問