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乾電池が出来る最初のきっかけは試験に間に合わなかったから?

チコちゃんに叱られる

災害時など停電の時、なくてはならないのが懐中電灯だ。
電池さえあれば、どこでもいつでも使う事が出来る必需品と言っていいだろう。

懐中電灯に限らず、電池はなくてはならないものだが…
確かに電池の単1単2…の単って何だろう?

8月23日のチコちゃんに叱られる!は「拡大版ロストサマー!二度と帰れないあの夏の日は何してたっけ!?スペシャル」。3つ目の問題は「乾電池」について、だ。

電池の単1単2の単って何?

「この中(岡村隆史、指原梨乃、草刈民代、松重豊)で電化製品を使いこなしているハイテクな大人ってだあれ?」という事で草刈民代が指名される。

電池にはいろんな大きさがあるが「単1単2の単って何?」とチコちゃんが聞く。

草刈は「あまりにも電気や電池が複雑なので、本当は単純って事で『単』!」と答える。
…するとチコちゃんに「単純に考えてんじゃねーよ!」と叱られた。

◯チコちゃんの答え
⇒単1単2の単は、一つで済む電池という意味

単位電池

詳しく教えてくれるのは次世代電池の研究をしている東京理科大学応用化学学科の
駒場慎一教授。

教授によれば、乾電池を単1単2電池と言うがこのような電池を「単位電池」と呼ぶ。
つまり「一つでも済む」という意味だそうだ。

積層電池

単位電池の他に積層電池というものがある。
積層電池は、1934年ごろまで使用されていた。複数の乾電池を直列にし、高い電圧にした電池のこと。(四角い電池で、中に細い電池が4本入っている写真が出た)

最近は見かけないが、当時乾電池を使用していた懐中電灯などの電化製品は消費電力が大きく、1本の乾電池ではまかないきれないものが多かった。そのため、乾電池は、ひとまとめにされ積層電池として売られていた。

「一つで済む」という意味

しかし、戦後、電化製品の省エネ化と乾電池の性能向上により1本でも十分作動できるようになった。

複数の電池を積み重ねる積層電池に対して、単位電池は「一つで済む」という意味がある。
これを略して単1電池、単2電池…という言葉が生まれた。

乾電池を発明したのは日本人

今は当たり前のように使っている乾電池は、世界で初めて発明したのは屋井先蔵という日本人だった。あまり知られていない理由には彼の不遇の人生が関係しているという。

ここから「NHKたぶんこうだったんじゃないか劇場」が始まった。

電と池と~乾電池誕生物語~

※屋井先蔵役はお馴染の鶴見慎吾

屋井先蔵は、21歳当時、発明家を志し、指導者の養成機関東京職工学校に合格するために勉強にいそしんでいた。

最初の不運

試験当日…試験会場に急ぐ先蔵。
時計を見ると9時までにあと5分ある。
何とか間に合いそうだ、と思いながら試験場に着くと門は締まっていた。

屋井は門のところにいる男に「試験を受けに来た、入れてくれ、時間はまだ大丈夫だろ!」と言うと、男は自分の懐中時計を見せて「私の時計では、既に2分すぎている」と言った。

当時の時計は精度が悪く、時刻は時計によってバラバラだった。
先蔵は、そのため試験に間に合わなかった。

どの時計も同じ時を刻んでいたら…悔しがる先蔵だったが「よし、こうなったら俺が正確な時計を作ってやる」と心に誓う。

こうして先蔵は、全てのお金を時計の発明につぎ込み、寝る間も惜しんで研究に没頭した。

連続電気時計の開発に成功

3年後…
先蔵は電気で正確に動く連続電気時計の開発に成功し、日本で初めて電気分野での特許を取得した。

「あなた、頑張った甲斐がありましたね。」と言って、お茶を出したのは先蔵の妻(…役はお馴染みアナウンサーの塚原愛。意外といけてる!)だった。

「今まで苦労を掛けたが、この電気時計で大金持ちになれる」と二人は喜んだが…ほとんど売れなかった。

「液漏れ」「冬場は凍る」で売れない

その原因は時計を動かしている電池にあった。
当時の電池は湿式電池。電解液と呼ばれる液体を使用したもので「液漏れ」「冬場は凍る」などの欠点があり、普及しなかったのだ。

「大枚はたいて特許までとったのに」とがっかりするも、奥さんに励まされた先蔵。今度は「液漏れもしない凍らない電池を作ってやる!」と新しい電池の研究を始めた。

乾電池誕生

そして…
ろうそくの蝋からヒントを得て、電解液に石膏などを混ぜ個体(ペースト状)にすることで、液漏れと凍結を解消することができた。さらに電池の容器を亜鉛にし容器自体を電極にするという画期的な構造を生み出した。

奥さんが「電池の名前をどうするの?」と聞くと「決まってるだろう、乾電池よ」とカメラ目線で言う。…という事で1887年、世界初の乾電池「屋井乾電池」が誕生した。

外国の企業に模倣される

「屋井乾電池」は、大学の教授たちにも好評価を受けシカゴ万国博覧会にも出展した。

ところが…
シカゴ万博で出展された屋井乾電池を見て、外国の企業が模倣品を製造。先蔵は、乾電池の開発に全財産をつぎ込んでしまったため、特許をとるためのお金がすぐには用意できず、その間に模倣された輸入品が国内に出回る、という事態になった。

大量注文が入り、「乾電池王」になる

ところが…陸軍から屋井乾電池の注文が大量に来た。
日清戦争で、それまで陸軍は情報戦を左右する電信機に湿式電池を使用していたが、極寒の地でも凍らない屋井乾電池を採用したことで、情報戦を制し戦争に勝利した。

この事で屋井乾電池の名は瞬く間に世間に広まっていった。

先蔵は会社を設立し、乾電池を量産「乾電池王」と呼ばれるようになった。

胃がんで亡くなる

そして、これから、という時に、先蔵は胃がんで亡くなってしまい、その後、会社は軍からの需要も途絶えたこともあり倒産した。

この功績があまり知られることはなかったが、先蔵の乾電池の技術は、他の日本の企業に受け継がれ、現在まで様々な電池が開発されている。

※以上8月23日放送「チコちゃんに叱られる!」より参照・抜粋

まとめ

今は、乾電池があるおかげで、電源がない所でも電化製品を使える時代になった。
屋井先蔵の功績は、本当に称えらるべきものだと思う。

時計が狂ってなくて、彼が試験に間に合っていたら、電池の世界は、変わっていただろうか…。

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