若い頃、回転ずし屋が出てきたころ、安いというのもあるが、ゆうに皿30枚以上は食べていた。
あの頃に比べたら、今は(50代後半でも)もちろん皿数は減ったがそれでも20皿近く食べてしまうこともある。
一人前10貫というならば、一皿2貫乗っているから5皿という事になる。
20皿で…4人前!
ラーメン4人前は無理だが、回転ずしなら食べられる…不思議だ。
なんで握り寿司の一人前は10個なの?
5月22日放送の「チコちゃんに叱られる!」のゲストは、和田アキ子とウェンツ。
2つ目の問題の回答者は「おすしを粋に食べる素敵な大人」ということでウエンツが指名される。
「NHKの食堂」「某有名店」「スーパー」の3ヵ所の握りすし、各一人前の写真が出される。
共通しているのはいずれも10貫。
チコちゃんは「お店によって数は多少前後するんだけど、握りずしの一人前は大体10個なのよ。なんで?」とウエンツに聞く。
ウエンツは「時間が関係する。おすしはパッと食べて帰る、みたいのがあって1貫たべるのに3分。30分かけて全部食べ終わる設定にしたから」と答えるが叱られる。
○チコちゃんの答え
⇒握りずしの一人前が10個なのは…それですし絶滅の危機を乗り越えたから
戦後まもなく日本のすし屋は全滅していた
詳しく教えてくれるのは、明治元年創業江戸前すし店の4代目、安井弘さん87歳。
安井さんは昭和・平成・令和と、おすしの歴史をその目で見てきた生き証人。
「戦後まもなく日本のすし屋は全滅したんですよ。それを昭和22年にお米一合で握りすし10貫握るということで復活させた」と安井さんは言う。
握り寿司復活物語
ここからはお馴染み「チコジェクトX」が始まった。
「日本の食文化として定着し、子供も大人もみんな大好きなすし。戦後このすしが日本から消えた時代があった。すし職人が綴った記録(三長会「壽」集成)には、すしを復活させるためにお米一合ですし10個握るという、起死回生のアイデアが記されている。これは握りずし存続をかけたすし職人たちの挑戦の物語である…」
…昭和16年 米魚 配給制
戦後
すし絶滅の危機
すしが握れない
配給米 起死回生のアイデア
立ち上がった職人
米一合で10個
使えるネタを探せ…
すしのない国になるところだった
~握りずし復活物語~
江戸時代の屋台で生まれた握りずし。
日本の食文化として発展。
戦前、東京のすし店は3000軒を越えていた。
しかし戦後すしは絶滅の危機を迎える。
このときすしを守るべく立ち上がった男がいた。
銀座のすし店主、八木輝昌。
(「八木さんの事はおやじからよく聞いていました。組合の中心人物ですし業界のために苦労された方です」と、安井さんはいう。)
太平洋戦争が始まった昭和16年、すし文化の危機が始まった。
すしの命ともいえるお米。
そして魚が配給制になった。
「魚の配給がどんどん減ってきて、握るものがなくなってきたんですね、あの当時」(安井さん)
それでも寿司文化を途切れさせぬように作っているものがあった。
「戦時ちらし」といって魚なしで野菜主体のちらしずし。
(「お客さん、野菜をうまそうに召し上がっていたね。戦争中だから」と安井さん。)
戦争の状況はますます悪化していく。
(「昭和19年の半ばころまでで、完全にうちは閉めた。最後の仕事が戦時ちらしだと僕は記憶している」と安井さん。)
昭和20年、終戦。
日本は、多くのものを失った。
お米や魚の配給制が続く中、すし店にとって衝撃的なことが起こる。
「飲食営業緊急措置令」
限られた食料を国民に配給するため、一部許可された店以外、飲食店の営業が禁止になった。
許可された店にすし店はなかった。
日本からすしが消えた…。
すし店主、八木照正は思った。
美味しいすしで日本人の笑顔を取り戻したい。
組合員を集め、活路を見いだせないか議論を重ねた。
目を付けたのは国民に配給される一合の米。
家庭ではすしは握らない。
ならば我々があの米を使ってすしを握ったらどうだ?
考えたのはすしの委託加工。
みんなが配給で米をもらう。
その米をすし屋が握る。
すしを売るんじゃなくて加工するということ。
客が持ってきた米を握りすしに加工して客に返す。
これなら飲食業ではなく「加工業」となる。
すし職人だけにいかしたアイデアだった。
八木たちは東京都知事(安井誠一郎)に直談判したが答えはNO。
「米はよくても魚はダメ」という理由だった。
「配給に影響が出るからすし屋になんかまでは魚回せないよ」(ということだったらしい)
八木たちは、食い下がった。
配給で規制されていないものがある。
貝海老、川魚、かんぴょうや椎茸。
卵の寿司もうまい。
八木は言った。
「加工賃40円もらえれば10種類のネタを用意できる!」
米一合を10個の握りすしにします。
40円で10種類なら多少の儲けも出る。
すし店、すし文化が生き残るためのギリギリの数だった。
「よくひらめいたな」…(東京都知事の)許可が下りた。
米一合から10個、一人前が10個となるきっかけとなる。
「親父がね、本部から帰ってきて『委託加工が始まるぞ!一合で10貫握るんだ。』はかりを持ってきて一貫の重さを量っていましたよ。委託加工がきっかけで10貫になりました」と安井さん。
昭和22年すし店は「持参米すし委託加工」として営業を再開。
果たして客は来るのか?
来た、一合の米と笑顔を運んできた。
(「お客さん喜びましたね。まちに待ってた。器に風呂敷持って、お米持って並んだりしてね。」と安井さん。
店内はすし詰め状態になった。
戦後日本は復興、すし店の数も増えていった。委託加工の時に決められた握りすし10個はそのまま一人前の目安になった。
当時を知る数少ないすし職人、安井弘さん87歳。
今でもつけばに立つ。
当時ネタに困っていた店で安井さんがためしに使ったネタがある。
きゅうり
「親父はね昔の寿司屋ですからね、生の野菜なんか巻くんじゃねえよ!なんて言われましたけど巻いてみたらいけるんじゃないか、お客さんにもいけるよ、と言われ、自信をもって…」(安井さん)
安井さんが試しに巻いてみた「きゅうりの巻きずし」は食料不足の時代だからこそ、あっという間に周囲に広まり、江戸前すしの定番「かっぱ巻き」になった。
「パーっと広がりましてね、うまいのができるとみんな真似しちゃうんですよね」と安井さん。
せっかくなので(スタッフがかっぱ巻き)いただいた。
「ゴマがきいているのがいいですね」というと安井さんは「ゴマは他の店がやっているのを真似しました」と照れ笑い。
※現在はお店や値段によりお寿司に数が増減したり一合より少なく握る場合もあります。
※5月22日放送NHK「チコちゃんに叱られる!」参照・抜粋
まとめ
すし屋復興のカギ、一合で10貫…。
いつも行っているくるくる寿司屋でのカミさんとの話を思い出した。
「普通の日と土日では気のせいかシャリの量が違うような気がする、さらに言えば昔と比べるとシャリが小さくなった気がする」とカミさんが言う。
「何で?」と聞くと「だって、シャリが少ない方が多く食べてくれるじゃん」と。
「でも、こういうところは、ほとんど機械で握っているんじゃないか?なら、同じだろ?」と言ったことがあるのだが…。
一合で寿司10貫、当時のシャリの大きさはどれくらいになるんだろうか…
勝手なことは言えないが、くるくる寿司10貫で一合になるんだろうか…
そうか、くるくる寿司で20皿食べれるのはもしかしたらそういう事か?