「…イチョウの木というのは火災に強く景観の面でも非常に美しく、秋になれば黄金色に輝きます」そう話すのは東京市の一介の公務員、長岡安平。
長岡の思いが全国に広まり大坂の御堂筋や東京の神宮外苑など秋の葉黄金色したイチョウ並木が楽しむことができるようになった。
彼がいなければ、あの美しい黄金色の風景は、なかったかもしれない…
年末最後の拡大版「チコちゃんに叱られる!」。
最後の質問は「街路樹のイチョウ」の話。
なんで街路樹はイチョウが多いの?
「この中(岡村隆史、さだまさし、萬田久子、高橋みなみ)で、一番散歩が似合う優雅な大人ってだあれ?」という事で萬田?という空気だったが「ワンちゃんと散歩に行ってもすぐ店に入ってシャンパンを飲んでる」とチコちゃんにばらされ、回答者は(シャンパンは昼から飲むという)岡村になる。
散歩していると街路樹のイチョウをよく見かける。
「(東京の神宮外苑や大阪の御堂筋などイチョウが綺麗なところはいっぱいあるが)なんで街路樹はイチョウが多いの?」と聞かれた岡村、「清掃問題、誰かが道を掃除しなければならない。落ちてくる枯れ葉と同時にゴミも拾おうではないか、という環境問題に根を張ったイチョウ並木だったのです。」と答えるが「なるほど!…ボーっと生きてんじゃねーよ!」と言われる。
〇チコちゃんの答え
⇒街路樹にイチョウが多いのは火に強い木だから
イチョウは葉が厚く水分がたっぷり入っている
詳しく教えてくれるのは造園や街の景観について研究している福井県立大学の進士五十八学長。「イチョウは葉が厚く水分がたっぷり入っている。だからとても火事に強い木」だという。
そこで…
実際、他の木の葉に比べてイチョウの葉は燃えにくいのか?という実験をしてみた。
ガスコンロに網を乗せ、ハナミズキの葉とイチョウの葉を置く。火を点けると見る見るうちにハナミズキの葉は燃えてしまうがイチョウはなかなか燃えない。
その他、楓(カエデ)、松(マツ)、楠(クスノキ)、桜(サクラ)、それぞれの葉を比べてみても燃えにくいことが分かった。
またイチョウは葉だけでなく幹も他に木に比べて多く水分を含んでいるため木全体が燃えにくく火事に強い木である。
今では街路樹と言えばイチョウが多いが最初は違っていた。
最初に植えられた街路樹は?
そもそも東京で、街路樹を植え始めたのは明治の初め。
都市の近代化を目指していた明治政府がヨーロッパなどの街を参考に、街路樹として銀座に桜、松、柳、を植えたが土が合わなかったり手入れがうまくいかなかったりで、なかなか育たなかった。
街路樹に見た目の美しさを求めていた風潮の中、違う考えを持っていたのが長岡安平だった。
長岡安平がやったこと
長浜は、東京の芝公園を始め、札幌の円山公園など、日本中の公園の設計案作りや整備に関わり後に近代公園の先駆者と評価される人物だが、当時は東京市の一公務員だった。
彼は、街路樹にイチョウを植えることを強く提唱した。
と、ここからは「NHKたぶんこうだったんじゃないか劇場」が始まる。
銀杏がくる~イチョウを信じた男~
明治30年…
「今まで私は神社の整備もしておりましたけど、イチョウの木というのは火災に強く景観の面でも非常に美しく、秋になれば黄金色に輝きます」そう話すのは長岡安平(役:鶴見慎吾)。
当時、(街路樹は)景観が大事と言われていたが、長岡は防災の面でも街路樹の役割が重要だと考え火に強く昔から日本にあるイチョウを提案した。
「これを東京中の街路樹にしようと思うのですがいかがでしょうか?」という長岡に対し、上司?は「いや無理無理、君、今の時代を考えなさいよ」という。
この頃の日本は日清日ロ戦争にかかる予算を最優先にしていた。そんな中で街路樹の植え替えには莫大な予算がかかるとして、一地方公務員だった長岡の意見など誰も聞こうとしなかった。
「長岡さん、もういいじゃありませんか。そんなの通るわけありませんよ」と部下(部下役:八十田勇一)にも言われるが「俺は諦めんぞ!あいつら俺を小役人と思ってなめやがって」という。
長岡は、防災面での街路樹の色々な人に重要性を説いて回った。そしてついに多くの人の力を借りて、(農商務省林業試験所所長や新宿御苑苑長など)計画書の作成に至った。
街路樹にはイチョウが必要になる!
明治40年、計画書が遂に通った。
そして渡された「東京市行道樹改良按」。
驚いたことに、そこには
「イチョウ スズカケノキ ユリノキ アオギリ エンジュ トチノキ トウカエデ ミズキ トリネコ アカメガシワ」…なんと、イチョウだけでなく外来種のスズカケの木やユリノキなど10種類の樹木が書かれていた。
その頃は海外のものを取り入れることを良しとした風潮があったので、イチョウなどの在来種を!と言う長岡の案に反し、外来種が多く反映されてしまった。
そんな中、長岡は「絶対に街路樹にはイチョウが必要になる!」といい、その時のためにイチョウの苗木を育てていた。
長岡は現在の東京・大久保や野方周辺に苗圃(苗木を育てる畑)を作りいつ街路樹として植えられるかもわからないイチョウの苗木を育てた。
そして長岡が怖れていたことが起こる…。
大正12年9月関東大震災
東京だけで死者6万5,902人、16万戸以上の家屋が火災で焼失した。
また東京の6割以上の街路樹が消失。
しかしそんな中イチョウの木の多くが燃え残り延焼を防いだ事例も多く見られた。
東京の大手町に、関東大震災を生き抜いたイチョウが現在も残っている(真ん中の色が違う部分は当時焼けてしまった跡)。
震災後の調査でイチョウが火に強いことがわかり、東京はその後、新たに植える街路樹をイチョウの木にすることになった。
しかし長岡は多くのイチョウが街路樹として植えられることを見ることなく、大正14年(1925年)享年83歳で、この世を去った。
「長岡さんがたくさんのイチョウを育ててくれたので、震災復興事もスムーズにいった」と先生は言う。
今日本で街路樹と言えば「イチョウ」。
これはきっと長岡さんおもいがあったからこそだろうと思う
長岡の思いが全国に広まり大坂の御堂筋や東京の神宮外苑など秋の葉黄金色したイチョウ並木が楽しむことができるようになった。
※12月27日「チコちゃんに叱られる!」より抜粋・参照
まとめ
全国各地にあるイチョウ並木。
いずれも秋には素晴らしい景色を見せてくれる。
個人的には、北海道大学の敷地にあるイチョウ並木が好きだ。
晴れた日に黄金色に輝くイチョウ並木のトンネルは一見の価値あり!