パラリンピックの「パラ」は平行の意味のパラレルからきているのだと思っていたが、実はもう一つの意味もあったようだ。
来年、東京で2度目のオリンピック・パラリンピックが開催される。1964年に開催された最初のパラリンピックにまつわる話を知っておくのも悪くはないだろう。
8月23日のチコちゃんに叱られる!は「拡大版ロストサマー!二度と帰れないあの夏の日は何してたっけ!?スペシャル」。
来年(2020年)8月25日、東京パラリンピックが開幕する。
12日間にわたり、戦いが繰り広げられる。
今回、最後の問題は「パラリンピック」についてだ。
パラリンピックの「パラ」ってなに?
「この中(岡村隆史、指原梨乃、草刈民代、松重豊)でスポーツが似合うカッコイイ大人ってだあれ?」という事で岡村が立候補する。
チコちゃんが岡村に「2020年はオリンピック、パラリンピックが開催されるがパラリンピックの『パラ』ってなに?」と聞く。
岡村は「…実は長い言葉をきゅっとした…だと思います!」と答えると、チコちゃんが「それはもうみんなそうだと思ってるわよ」という。
そして、岡村が考えてやっと出した答えは「…パワフルラン!」だった。が、やっぱり「ぼーっと生きてんじゃねーよ!」と言われてしまう。
◯チコちゃんの答え
⇒パラリンピックのパラは「パラプレジア」の「パラ」
「パラプレジア」と「オリンピック」を掛け合わせたのが「パラリンピック」
詳しく教えてくれるのは、内閣官房東京オリンピック・パラリンピック推進本部事務局長の平田竹男さん。
平田さんによれば、パラリンピックのパラは「パラプレジア」という言葉の「パラ」からきていて「パラプレジア」と「オリンピック」を掛け合わせたのが「パラリンピック」と言う言葉だという。
前身は「ストーク・マンデビル大会」
パラプレジア(paraplegia)とは「下半身まひ」という意味だが、パラリンピックには下半身まひではない選手も多く出場している。
パラリンピックはもともと「(下半身まひで)車椅子に乗る人だけが参加する大会」とされていた。
ストーク・マンデビル大会
1948年、ロンドンオリンピックに合わせて、ロンドン郊外のストーク・マンデビル病院で、第2次世界大戦で負傷した軍人たちがリハビリの成果を競い合うアーチェリーの競技会が開かれた。
この大会は「(車椅子使用者による協議会)ストーク・マンデビル大会」と呼ばれ、1948年以降、毎年この病院で開かれ、次第に世界各国から車椅子の選手が集まり国際競技大会へと発展していく。
「パラプレジアオリンピック」
1960年、オリンピック開催都市で「ストーク・マンデビル大会を行おう」と大会委員会が決めた。その結果、(1956年(メルボルン)~1959年まで毎年ストーク・マンデビル病院で行われていた大会が)1960年のローマオリンピックに合わせてローマで行われた。
この大会で「下半身まひ」を表わす「パラプレジア」とオリンピックを掛け合わせた「パラプレジアオリンピック」という名称が大会関係者の間で使われていた。
※その後、1961年~1963年は、また毎年ストーク・マンデビル病院で行われている。
東京オリンピックで初めて「パラリンピック」という名前使われた
公式に「パラリンピック」という名前が初めて使われたのは、1964年の東京オリンピックだった。
大会実現に尽力したのは「日本パラリンピックの父」中村裕さん。
大分県で医師をしていた中村さんは、当時最先端のリハビリ技術を学ぶため、1960年にストーク・マンデビル病院に留学した。
そこでスポーツによるリハビリに感銘を受け、1964年の東京大会を日本における障害者スポーツ発展の為の第一歩にしようと決意した。
順当にいけば、1964年東京でストーク・マンデビル大会が行われることになる。中村さんは発起人となり大会準備委員会を立ち上げ開催に奔走。
しかしこの大会を東京で開催することに反対の声があった。
中村裕さんの息子、太郎さんは「(父が行おうとしたことは)必ずしも世間、医療界の評価もいいものではなかった。せっかく病状が良くなったのにスポーツをして悪くなったらどうするんだ、障害者を見世物にするのか、みんなの前でスポーツ大会をするなんて、おおよそ、その頃の日本では考えられなかった」と話す。
そこで中村さんは、1962年のでストーク・マンデビル大会に自身の患者2人に参加してもらい、障害者でもスポーツができるとアピールした。
「欧米に追い付け、追い越せの時代だったのでオリンピックの後にパラリンピックをやらないと国際的に恥ずかしい、という話に持っていったのではないか、とも思う」と太郎さん。
中村さんの熱意に押され、東京大会開催が正式に決定し、1964年の11月8日~12日東京で「第13回国際ストークマンデビル大会」が開催された。
中村さんをはじめ準備委員会のメンバーは、この大会の名前をパラリンピックとし、公式にうち出すことを決めた。
第13回国際ストークマンデビル大会
織田フィールド(代々木の選手村)には参加22か国の国旗が翻り、パラリンピックの開会式が始まりました…という当時の大会開会式の映像が流れた。
そこには中村さんの姿があった。
・東京オリンピック終了から15日後に開催。
・参加22か国
・144種目およそ37人の障害者が参加。
しかし…
それ以降「パラリンピック」という名前は使われず、オリンピック年でも、開催は見送られていた。
再び「パラリンピック」の名前が使われる
再びこの名前が使われるのは1988年のソウル大会から、この時東京大会で初めて使われたパラリンピックの名前が国際オリンピック委員会に認められ正式名称になった。
現在はパラレルの「パラ」
パラリンピックの「パラ」は「オリンピックと平行して行われる」という意味の「パラレル」へと解釈が変更されたが、日本が大会名として初めて掲げたその名は、今も継続して使われることとなった。
来年東京で生まれたパラリンピックは56年ぶりに東京に戻ってくる…
結論:現在は「パラレル」の」「パラ」だが元々は「パラプレジア」の「パラ」だった
愛ちゃん情報
1953年イギリスの新聞記事に「パラリンピック」という言葉が使われていたという記述がある。が、大会関係者の中で使われていた俗称だった。公式に大会名となったのは1964年の東京大会が最初。
※以上8月23日放送「チコちゃんに叱られる!」より参照・抜粋
まとめ
せっかく病状が良くなったのにスポーツをして悪くなったらどうするんだ…
障害者を見世物にするのか…
みんなの前でスポーツ大会をするなんて…
今では、パラリンピックは、当然あるものと認識している。
が、日本で最初のパラリンピックが行われようとしたときの反対の声は、いかにも保守的な日本人らしいな、とつくづく思った。